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川村日南

片岡貞治先生

更新日:2021年8月12日

国際教養学部 教授


専門

国際関係論/アフリカ政治/アフリカ紛争・開発/欧州安全保障/国際安全保障/国際協力

早稲田_片岡貞治教授インタビュー

今回は早稲田大学国際教養学部で国際関係を中心に、欧州政治やアフリカ情勢について教鞭を執られている片岡貞治教授にインタビューさせて頂きました。ご専門に関するお話はもちろんのこと、在フランス日本国大使館や外務省日本国際問題研究所でのご活動についての貴重なお話も必読です!


学生時代について 

~ゼミとバイトと部活と飲み会~


ー早稲田大学政治経済学部に入学されたきっかけ・政治を学ぼうと思われたきっかけは何ですか?


実は最初は政治を学ぼうと思っていなくてですね、法律家志望で法学部を中心に慶應など色んな大学を受けていたのですけど、なぜか早稲田の法学部だけ落ちてしまいまして。でも政治経済学部は受かったのですね(笑)。当時は早稲田のラグビー部なんかも応援していたり、今は亡き父も早稲田(学徒出陣生)であったこともあったり、早稲田が第一志望でとにかく早稲田大学に行こうと決めていた事もあって、シフトチェンジという感じで早稲田政経に入って政治学を始めたのですね。たまたま政治学を修めることになってしまったみたいな感じですね(笑)。

ーそうだったんですね!政治経済学部での学びに関して、印象に残っている事はありますか?


当時、政経はゼミ定員が決まっていて、四割くらいの学生はゼミに入れなくて、ゼミに入っていない学生は「ゼミなしっ子」なんて言われていたのです(笑)。私は一応ゼミに入れて、その時のゼミの事はやっぱり今でも印象に残っていますね。


私のゼミの先生は、早稲田出身ですが、本属は学芸大学で、非常勤講師として来られていたのでした。大井孝先生という方で、彼には結構影響を受けましたね。現在欧州の政治を研究しているのも彼の影響です。


あとはもう亡くなってしまったのですけれど、内田満先生という方がいて、「うちまん」って呼ばれていたのですけど(笑)。「うちまん」の授業は面白かったですね(笑)。

ー「うちまん」(笑)。内田先生の授業はどんなことを教えている授業だったんですか?

政治学原論って言って、彼は世界中の政治学者の話をいっぱいするんですよね。政治学を専門とする政治学者が「こういう事を言っている」「ああいうことを言っている」と、とにかく紹介して、何だかミシュランみたいなガイドブックの様な感じで(笑)。三ツ星や五つ星と評価はつかないけれどね(笑)ガイドブック的な政治学原論で、入門にはとても良かったし、面白かったですね。

ー「うちまん」さんの授業、私も受けてみたかったです!!


うん、あとで内田満先生で調べてみてください(笑)。


あとはですね、今の上皇后陛下の正田美智子様のいとこの正田先生という方がいらっしゃって、正田先生の経済学史というのも面白かったですね。

ー色々な授業があったんですね。どれも面白そうです!授業や学問以外の部分では、どのような学生生活を送られていましたか?


現代のみなさんと違ってね、昔はかなり授業出てない人も多くて、私もその一人だったんですね(笑)。私はね、体育会のボクシング部に入っていたんですね。今、国際教養学部の先生で旧式の体育会出身なのは私と、あとは慶応レスリング部出身の平山廉先生だけだと思います(笑)。


ー体育会に入っていたのは存じ上げなかったです!体育会に所属しながら、学問との両立を図るのは大変でしたか?


いやあ、なかなか難しかったです。自分でいうのもあれだけど、なかなか破天荒な学生でね、要するに、全く授業に出ずに本だけ読んでいたんですね。とにかく試験さえちゃんとやって成績はしっかりとるという感じで(笑)。なかなか周りにはいなかったと思います。


学生時代はボクシング部の活動と、あとは塾講師のバイトをとにかくやっていたかなという感じです(笑)。あとは飲み会ですね(笑)。だから、ゼミと部活とバイトと飲み会。この四つが普段の生活の機軸になっていましたね。


フランスでの暮らし 

~早稲田卒業後、パリの大学院へ~


ー体育会でのご活動やアルバイトにご専念されて、大変お忙しい学生生活を送られたかと思うのですが、大学卒業後にパリの大学院への進学をご決断された理由は何ですか?


これはね、二つの理由がありまして。一つは家庭の事情とね、あとは先ほども言いましたゼミの先生(大井先生)の後押しというのがありましたね。


家庭の事情というのは、父親が留学に行きたくて試験に受かったのだけど、戦争前の大正生まれの時代で結局留学にいけなかったという事があり、息子である自分に「何とか行って欲しい」という対応があったんです。あとは大井先生に「是非留学は行ったほうがいい」と言って頂いたんですね。


大井先生はアメリカのコロンビアとパリの大学、どちらにも留学していらっしゃったのですけれど、「フランスの方が大変だから、是非フランスに行ってこい」と勧められたんです。

ー一般企業への就職などはお考えになられましたか?


そうですね。当時はバブルだったので、最初は就職しようと思ったんです。バブル時代というのはすごくてですね、企業とか銀行の方から電話がかかってきて、「ホテルオークラに来い」とか言われてね。バブルだから、とにかく売り手市場で、会社も人が欲しかったから、お金を出してまで学生をとるという感じで、面接の前に食事会がもうすでにあったりとかね(笑)。

ー今では考えられないような状況ですね (笑)(汗)。


考えられないですよね(笑)。もう今の学生の方々は、自分たちでどんどんアプライしないと就活は困難だと思いますけれどね。まあ、私の時の就職はそんな状況だったのだけど、父と教授から後押しを受けたこともあって、フランスに留学して大学院へ進むことに決めたんです。大学院へのアプリケーションやビザの申請など結構大変でしたけどね(汗)。

ーパリの大学院に進学されて、ご苦労された事はありますか?


とにかく授業などについていくのは大変でしたね。語学も勉強していきましたけれど、いきなりものすごく早口で色々言われたりするので、最初は大学の授業は録音しながら受けていましたね。結局、録音しても聞かないで終わりましたけど(笑)。


あとは試験なんかも大変で、口頭試験がたくさんあったのですけど、これは一つのトピックを与えられ、ひたすらそれについて論理的に説明するのですね(笑)。話している時に、「それは違う」「これは違う」「間違っている」などと教授から突っ込まれて大変でしたね。筆記試験はもっと大変で、一科目五時間ですよ!!五時間の筆記試験をやるんです!(笑)(8時から13時とか、14時から19時とか。しかも、フランスの人は、えんぴつやシャーペンでは無く万年筆を使うので、私も使っていましたけど、これはかなり使いにくくて、面喰いましたね(笑)。最初は下手くそで、変なお絵描きみたいになったりしてました(笑)。

ー万年筆かっこいいです(笑)!


あと苦労したことはね、パリでの飲み会というのが疲れましたね(笑)。私は日本ではボクシング部とアルバイト先の人たちとは、いわゆる日本的な飲み会しかやったことが無かったのですが、フランスの飲み会やお食事というのはちょっと違うんですよ。家に人を招いて、お食事をするというようなホームパーティや、カフェでビール一杯だけでずっとしゃべっているというようなのが多くてですね、哲学の話をずっとしていたりするんです(笑)。ちょっと疲れちゃいますよね、、、。いい思い出ですけど(笑)。

ーなるほど(笑)。大学生活で印象に残っていることはありますか?


大学院ということもありますけど、同じくらいの年代の学生がいるなかで、たまに40歳くらいのおじさんとか、50歳くらいのおばさんとかもいるんですよね(笑)。パリ第二大学(アサス)という所だったのですが、右翼の人が多いので有名な大学だったんですよね。今、右派として有名な、大統領候補者のルペン(Marine Le Pen)さんも、父娘(父親はJean-Marie Le Pen、極右政党「国民戦線」の創始者)ともどもパリ第二大学出身だったんです笑)。


あとは、右翼が多いと同時にパリの金持ちの子女が多かったり、アフリカ人やレバノン人の留学生もいたりして、当時の日本では考えられないような光景でしたね。そんな中で密度の濃いディスカッションをしなければいけないから、大変でしたね。

ー多様性にとんだ環境ですね!学問以外の部分で、印象に残っている経験はありますか?


そうですね、私は一人暮らしも初めてだったので買い物だったり、料理をしたりとか楽しかったですね。ワインとか(笑)。日本に比べたら、ワインや食料品というのは安くて、美味しくて。運動も少しやっていましたね。フランスで柔道やサンボ、キックボクシングをやったり。あとは、サッカーを良く観に行きましたね。PSG(パリサンジェルマン)の試合。


あとは、映画!映画も本当に安くて、当時はユーロになる前で、10-20フランくらいで映画を一本観に行けたんです。10フランというと200円くらいですね。200円で一本観られるので、映画を何本も観に行きました。フランス映画だと表現が難しすぎて、頭に入らないから、ハリウッド映画のフランス語の字幕つきを良く観たりしていましたね(笑)。

日本国大使館でのご活動 

~学生生活と大使館勤務~


ーフランスの日本国大使館に勤務されたのは、パリの大学院をご卒業された後ですか?


いや、厳密に言うとね、フランスの大学の修士が終わったのが93年で、次に博士をとるという時に、少し時間があり、お金を稼がないといけないという事で大使館勤務の仕事の話があって、アプライしたのですよね。96年からです。だから学生をやりながら勤務してという感じですね。滞在資格はがらりと変わるのですが。学生のビザからウイーン条約で認められた非課税の大使館員になるのです。大学の博士論文なんかは、大使館の仕事のない日とかに時間を作って資料を読んだり、書いたりしていました。

ー学生をやりながら、大使館で働かれていたんですね、、、。大使館ではどのようなご活動をされていましたか?


日本の政権は丁度橋本内閣と、その後の小渕内閣の時期でして、その時私は大使館に勤務していました。ちょうど池田行彦(池田勇人元首相の娘婿)さんという人が外務大臣を勤められていた時ですね。


僕は特にアフリカの情勢と中東和平のプロセスを担当していました。というのも、アフリカ現地の大使館からの情報は確かに東京に入るんですけど、バイアスがかかっていることが多くて、それをヨーロッパ(フランス)で調査して日本に報告するというのが私の役目でした。パレスチナ問題などの中東和平プロセスに関しても、フランスで情報収集をして報告していました。アラファト議長(初代パレスチナ国大統領)もフランスと関係が深かったので情報は取りやすかったです。大体アフリカ情勢の情報収集の仕事が7割、中東和平プロセスに関する仕事が3割という感じでした。

ー調査というと具体的にはどのような事をするんですか?


なにをするかと言うとね、基本的にはフランスの外務省や国防省の人と会って、ご飯を食べに行って、そこで得た情報を電報(暗号がかかっている文書)にして日本に送るという事ですね。


もちろん、彼らと話す前には、こちらも良く情報を知っておかないといけないから、沢山本などを読んで下調べをしておく。その上で、会食の際に「こういう情勢ですけど、どうなんですか」などと伺ってみると、「おお、そうだよ。良く知っているね。」と言って結構話してくれて、その情報を日本語にして、打ち込んで送るという感じです。

ーなるほど。とても興味深いです!


一番大変だったのはね、コンゴ(共和国)(ブラザヴィル)とコンゴ(民)(キンシャサ)のそれぞれの内戦でししたね。当時1990年代、コンゴでは政治情勢も悪化していて、ずっとフランスの国防省の人が「コンゴ(共)もコンゴ(民)も危ない。絶対に紛争になる。コンゴ(共)は直ぐに内戦になる」と言っていて、私はそれを極秘情報として電報にして日本に送っていたんです。まあ、当時の日本というのはあんまりアフリカ情勢に興味がなかったのだけど、東京のほうから私に返事が来てね。「コンゴの状況を調べてこい、現地に日本人が何人いるか調べて、助けてこい」と、、、(汗)。


ーそのようなご指示を受けた後は、どうなされたんですか?


私はとりあえず、フランスの大統領府(当時一緒に食事などしていた仲間)の補佐官(かなり偉い人でした)に電話して、「何とか助けてくれ」と頼んでね。コンゴにいる在留日本人のリストを在仏大使館の領事部に作ってもらって、そのリストをファックスで送って、フランス国防軍のヘリとか船にのせて助け出してもらいました。その邦人退避オペレーションは結構大変でしたね(笑)。でも確かにフランスの極秘情報は当たっていて、本当に直ぐにコンゴ(共)、コンゴ(民)でも紛争が起こったから、危なかったですが、何とか救い出すことが出来て良かったです。

(インタビューの際には、お話しする時間はありませんでしたが、実は、その種の邦人退避オペレーションはその後も隣のコンゴ(民)、中央アフリカでも行いました。)

ーかなり緊迫したオペレーションを行っていたんですね(汗)。すごいです。

ご専門について 

~アフリカ政治・欧州政治~


ー先ほど、片岡先生がおっしゃられたように、1900年代には、まだ日本のアフリカ情勢への関心が薄かったという印象を受けますが、なぜその様な状況でアフリカに関する調査やご研究をしようと考えましたか?


早稲田を卒業して、パリの大学院に行くときはね、アフリカ研究というのは全く頭になくて、フランスの核戦略や植民地との関係について勉強していたのです。でも大使館でアフリカの情勢調査に関するお仕事があるという事で、そこからアフリカ研究の専門家にさせてもらったみたいな所はありますね(笑)。

ーそうだったんですね!アフリカの政治について長くご研究されていますが、今のアフリカの一番大きな課題は何だとお考えですか?


色々な問題があって、一つに定める事は難しいですね。でも、やっぱり貧富の格差はすごいですね。アフリカのお金持ちというとベルギーくらいの土地を持っている人がいますし、その一方で、一日一ドル以下で生きている貧困層は大勢いますから。


そのギャップを埋めるためには政治家の努力というのは必要なのですけれど、その政治家がいい加減なことが多いのですよね。「winner takes all」みたいな所があるけど、もっと「winner」が持っているものをきちんと分配していくような仕組みを作らなければいけないと思います。ただ単に我々が貧しい人に100万円ずつ渡すのではなくて、公平な政治がしっかりと行われる国をつくっていかなければならないと考えます。ガバナンスを抜本的に改善して、貧富の差「inequality」を解消するのが一番大事なんじゃないですかね。

教員として
早稲田_片岡貞治教授インタビュー

ー早稲田大学で教鞭を執られようと思ったきっかけを伺えますか?

片岡先生:初めから、大学教員になろうと思っていたわけではないんですよね(笑)。そもそもなろうと思っても、簡単にはなれないものでした。パリの大学院に行きながら、大使館で四年間勤務した後に、そのまま外務省に残ることも出来たんですけれどお断りしたんです。そうしましたら、ちょうど今の皇后陛下雅子様のお父様である小和田恆理事長から、「是非一緒に外務省の研究機関の日本国際問題研究所(国問研)で働いてほしい」とお誘いを受けまして、ちょうど2000年3月にその国問研に入ったんです。四年間勤めましたが、そこでも、アフリカ研究と欧州政治を担当していました。


ーそうなんですね!そこでのお仕事が早稲田大学の教員になられる決断に関係しているのですか?


日本国際問題研究所での仕事が結構忙しくて、毎日夜中まで仕事して始発で帰るような生活だったんです(笑)。研究の発表などをさせてもらう機会というのは多かったんですけど、仕事の量が多くて、時間をかけて何かをゆっくり考えるという時間や余裕があまり無かったんです。これは大変だと思いましてね、やっぱり大学で研究活動をするのがいいんじゃないかと思ったんですね。


まさにその頃、早稲田大学に国際教養学部という新しい学部が出来るという話がありまして、2002年くらいにアプライしました。これまた面白いのがね、一次審査(書類審査)を受かったという連絡をウガンダのカンパラで受けたのです(笑)。

ーなぜウガンダにいらっしゃったのですか???


日本国際問題研究所の請け負った仕事で、ウガンダとザンビアのガバナンス調査ということでウガンダにいたんです。でもウガンダというのは当時インターネットの接続というのが本当に悪くてですね。だから、たまたまどこかの事務所でメールをチェックしてみたら、早稲田大学の専任教員採用選考の一次審査合格の連絡を見たのです(笑)。もし、あの時、別の場所にいて、メールをチェックできる状況にいなかったら、気付かないまま選考自体も終わっていたかもしれないですね(笑)。何かのご縁ですね、間違いなく。

ーご縁ですね。早稲田大学国際教養学部でのご活動についてのお話に戻りますが、現在持たれている授業に関して、コロナウイルスの影響でオンラインでの授業形式が中心になり、気を付けていらっしゃることはありますか?


そうですね~。いや難しいですよね。zoomを使っていると、質問もチャットで受ける事が多かったりして(笑)。オンデマンド講義でも質問の量は増えましたよね。通常の講義だと周りに人が多くて、発言しにくいことも、オンラインやオンデマンドだと質問しやすいという事でしょう。オンライン授業が中心になっても、同じ時間と空間を共有するというのはやはり大事なことであると痛感しています。「匂い」を感じられないのがつらいですね。でもオンラインになったから気付けた事もありますし、学生の方々も色んな授業形式を経験していますし、オンラインの良い部分を取り入れながら、人との触れ合い、語り合いを行って時空を共有する元の形式に戻れたらと思っています。私は割とオプティズム(楽観的)な気持ちでこの状況を考えています。

学生に向けて 

~「欠席者は常に間違っている」~


ー先生のゼミや授業を受ける学生に大事にしてほしい事はありますか?


如何なる人間として如何に生きていきたいのか。というのを大事にしてほしいと思っています。感謝の気持ちを常に持つことも。人というのは、なかなか思い通りにならない。「相手の思うような人間になって欲しい」と常々言っています。その為には、他人の視点で考える力や想像力も勿論大事です


あとは、あまり小さい事件や失敗に惑わされずに、フレキシブルな考え方を持っていてほしいですね。だから、困難な事があっても、これくらいで済んで良かったと思える強い心を持ち、不幸の中から幸せの種を見つけて欲しいです。また、失敗をしてしまっても、すぐあきらめてしまわないで、ありとあらゆる可能性を追及して欲しいです。何かを深く好きになり、夢中になることが出来るのは素晴らしい能力だと思いますから。

ー素敵なお考えです!!!ずばり座右の銘はありますか?


そうですね~。いっぱい、ありますけど、僕が良く言っているのは、フランスの格言で「欠席者は常に間違ってる」(Les absents ont toujours tort)という言葉があります。ルソーをはじめ、色んなフランスの哲学者が使っています。欠席するとどうしても、そこで何が起きたかというのは正確には分からないのですよね。自分をdefendすることは出来ない。今はコロナで中々イベント事など参加するのは難しいかなとは思うんですけど、収まったらイベントとか食事とか、お座敷とか声がかかれば出来るだけ参加してみるというのが大事だと思います。絶対参加しなければいけないという事ではないのですけれどね(笑)。お誘いを受けたら、できるだけ色んな所に赴くのが良いと思います。

ールソーのお言葉、存じ上げなかったです!"参加"から得られる出会いや学びがあるということですね!


早稲田大学での学生生活、フランスでのご生活、教授としてのご活動など、すべてが聞き入ってしまうほど新鮮で興味深いエピソードばかりでした!

片岡先生、貴重なお話とお時間頂き有難うございました!


教員プロフィール

担当科目(2020年現在)

Introduction to International Relations 04

Political and Economic Situations in Southern African Countries

European Integration and Foreign Policy

European Integration and Foreign Policy

Politics in Developing Countries (African Politics)

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