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高原大輝

長谷正人先生 前編

更新日:2021年8月14日

文化構想学部 教授


専門

映像文化論 / 文化社会学


今回は、文化構想学部を中心に講義をされている長谷正人先生にインタビューを行いました。

他教授のゼミ面接で学生にモノマネをされるほど学生に愛されている長谷先生に、ご自身が教授になるまでの経緯や学生の抱える問題などお話を伺っています。

文化構想学部の学生だけでなく全ての学生にとってためになるお話を聞くことができました。最後までぜひお楽しみください。




学生時代

~日常は映画~


- どのような学生生活を送っていらっしゃいましたか?


映画ばっかり見てましたね。それまで全然見なかったという訳では無いのですが、大学に入ってからは年に300本とか400本とか見ました。


- 凄い数ですね・・・。


とにかく上映されてる映画は全部観るという方針を立ててましたね。

先日、初めてお話しした同世代の篠崎誠っていう映画監督には、「長谷さんが映画館にいないとみんなが騒然となった」って言われました(笑)。私がいないとシネフィルたちはこの映画館よりもっといい映画が他で上映されてるかもしれないって不安になったらしい。


- 映画館の常連客でいらっしゃったということがよくわかります。 映画が好きだからそんなに数をこなしていたのでしょうか?


好きだったのかなぁ? 本当に好きなのかわかんないよね(笑)。村上春樹の『1973年のピンボール』っていう小説があるのですが、そこで主人公はあるピンボールの台を探し出すために旅をするんです。それって1972年の連合赤軍事件で革命的な情熱が破綻した後に、そうやって意味ある社会を探究するような情熱を持っても悲惨な結果にしかならないから、反対に最も無意味なものに情熱をかけようとしているように読める(って柄谷行人が解読してる)。私にとっての映画って、そのピンボールの台に似てたと思う。


-映画がその無意味なものなのでしょうか?


映画はもう産業としてもおしまいだと少なくとも当時の私は感じてました。華やかだった映画という文化が消えていくという感じがあったんです。今みたいに映画は素晴らしいって必ずしもみんなが言ってなかった。消え去っていく文化に対する愛着だったような気がします。だからいまみんなが映画は良いって言うのに全く共鳴できないです。


むしろ昔の感覚をまだ引きずってるんだと思います。革命運動は世代的に間に合わなかったけど世の中を変えたいという気持ちはあったわけ。でもそれをやると悲惨な結果にしかならないって分かったから、役に立つことではなく1番役に立たないことを選ぼうと思ったんです。


- それが映画だったのですね。


映画をひたすら見るということに社会的な価値なんかなくて、だから一種の宗教みたいなものですね。なんか性格的にひねくれてるんだと思います(笑)。だから単に映画が好きということではないと思う。


- そうした感覚だったのですね。


でも当時の映画鑑賞記録は今でも取ってあります。10点法で一本一本に映画に点数をつけていました。そういうところってオタク的ですよね。オタクという言葉はまだ存在してなかったけど、私たちは元祖オタク世代と呼ばれる世代だったんです。オタクって、コミケの紙袋の中に入ってるものを人格として「おたく」と呼ぶわけでしょ。要するに、本人同士が直接に向き合うのが嫌だから紙袋の中身のアニメの趣味で互いの人間を計るわけですよね。私も映画に人格を預けちゃって自分と直接向き合いたくなかったんだと思う。


- 映画に「自分」というものを託していたというわけですね。


そうですね。あと8ミリ映画ブームに影響を受けて自分たちでも映画を作っていました。当時のキャンパスでは、毎日どこかのサークルが撮影しているのが日常風景でした。普段見ていた映画を自分達でも創れるということにみんな熱狂していたんですね。大学全体が映画作りに取り憑かれたんですよ。もう本当にすごかった(笑)。


- 自分達で映画を作ることができるようになった感動は大きかったと思います。


テレビでも映画でも映像というのは、スタジオで照明・衣装・カメラマン全部プロの技術者が集まって作る工業製品だったわけですよ。だから、技術もお金も必要だった。しかし私たちは素人だし、当然、スタジオを借りるなんて発想もお金も無かったから友達の家の押入れを利用して映画作りをしてました。


- 楽しそうです!


いや撮ってる時は作品がどう出来ているか不安になるから辛いだけなんです。その場で映像を確認できるビデオカメラとは違って、当時のアナログカメラはその場でどう撮れているのかが確認できないから、作ってる最中はみんな不安でギスギスして喧嘩ばかりしてたんです(笑)。現像屋さんに出して、一週間待ってやっとどう映ってるか分かったんだよね。


- 映像を確認せずに撮影はノンストップでやられていたのですか!?


出来上がりがうまくいってるかわからないまま、どんどん撮影だけが毎日進むわけですよ。失敗して撮り直しだとなると本当に面倒くさいんです(笑)。あのとき何の服着てたっけみたいな大騒動になるわけ。もう本当に人間関係を悪くする。ところが、映像をつなぎ合わせてセリフ入れて音楽を入れると、それらしく見えるんです。これが麻薬的な快楽なんですよ(笑)。出来上がるとやっぱり楽しかったねってなる。それでまた作っちゃうんです。


- 中毒性のある感覚だったのですね。


その8ミリ映画作りに関わったことで、映画ってこうやって組み立てて作っていくんだなってことが分かったんですね。作ることと連動させてみられるようになってから、一挙に映画に対する興味が湧きました。



教員になるきっかけ

- 教員という職を選ばれた理由はなんでしたか。


どこから説明すればいいのかな。まあ社会に向いていないから教授になったという感じですかね。「長谷は生活力がないから就職なんかできない」って同級生にはボロカス言われてましたね。汚い格好して映画観てるだけの生活だから生活のことが全て上手くできませんでした(今でもですけど)。もちろん本は読んでたけど、映画を観ているだけの頭でっかちな人間じゃないですか。社会に出て働けないから親にもう少し学費出して下さいって頼んだわけです。


- そんな経緯が・・・(笑)。


でも、試験対策の勉強さえもしてないから大学院にまで落ちちゃったんですよ。それに社会学専攻だったんだけど、当時の社会学がつまらなくて嫌いだったんです。かといって映画専攻に行くにも、当時は映画研究も学問のレベルが低かったんで興味が湧かなかった。私達の世代がレベルを上げて面白くしたんだよ。君らは本当に得してるんだよ(笑)。


- ありがたいです。


- 千葉大学を選ばれた理由はあったのでしょうか?


大学教員になるのは簡単ではないですよ。選ぶことなんかできない。私の師匠がかつて千葉大学に勤めていたことがあって周りから尊敬されるような人格者だったんです。だからその先生が千葉大学に私を推薦する手紙一本書いたら私を取ってくれたっていうことです。


だから業績もないのにコネで採用が決まったことがすごいコンプレックスだった。その先生に恥をかかせたくないという思いで就職後も必死で勉強しましたね。研究者として1人前にならなきゃ申し訳ないという気持ちが30代はすごくありました。


- その後、映画の授業を始められたのでしょうか。


そうですね、一般教養の総合科目で「映像の社会学」というのを作って、それで毎年のように様々な先生を呼びました。映画を研究してる学者を呼んで、学生と一緒に授業を受けて映画の勉強をしたんです。映画研究のレベルも上がってたし、大体こんな感じだというのがその時掴めたし、興味を持つようになりました。それを契機にむかし、映画をたくさん観てたことも知れ渡るようになって、映画について書いてくださいという注文も来るようになりました。


でも、研究するのは難しかったです。苦労しました。映画を分析するという方法を持ってないというか、やり方が分からなかった。文学研究者は専門を応用すればすぐにできるんだろうけど、私は社会学だったんで、作品の中身を分析するには修練が足りなかった。それで社会状況の中で映画がどういう風に扱われてきたかっていう視点に辿り着いたんです。


- 新しい切り口で映画を考察されたということですね。


社会の中に映画が入ってきた時、社会はどういう変化や反応を示したか考察してみることにしました。自分の映画好きと、自分の持っていた知識と、自分が大学の教員であることを折り合わせて研究する方法を自分なりに考えました。


教員プロフィール

担当科目(2020年12月現在)

・基礎講義

・メディア論1・2

・映像メディアの社会学

・テレビ文化論

・表象・メディア論系演習(複製メディア論1・2)

・メディア社会論ゼミ

・マスターズ・オブ・シネマ 映画のすべて

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